ドストエフスキーのそれではないので、あしからず。




最近の、ネット上の匿名の一般人の批判を見て、感じることがある。


それは、


「罪は、いつになれば許されるのか」


ということ。





身近なサッカーでは、このところ不祥事が続いてしまった。

皮切りは徳島の馬渡選手の件。




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彼は一発退場のあと、二試合出場停止。
チームとしては謹慎と減俸。
翌週の試合で社長がサポーターに謝罪。


それでもネット上では、あることないこと、顔がヤンキーだの、散々に叩かれてしまっている。




思うのだが、彼のした行為というのは、


一発退場、
二試合出場停止
謹慎と減俸


それ以上に罪深いことなのだろうか。




彼のした行為は、ルール違反であり、やはり許されるべきことではないだろう、僕も彼の行為を容認するわけではないのだが。

が、彼の行為に対して与えられた「罰」が上記処分であって、
それを済ませたあと、どんな理屈でもってさらなる「罰」をあたえられなければならないのだろうか。





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人は「罪」を犯す。
それが法に反することなのであれば、それ相応の「罰」を受ける。

思うに「罰」というのは、「罪」の代償なのではないだろうか。
それを消化するということは、罪を贖った、ということではないのか。



犯罪を犯した者が、与えられた罰を受けて、また社会に戻ってくる。
が、扱いは「元犯罪者」であることが多い。

では、いつになれば完全に罪を贖ったと言えるのだろうか。
さらに何をすれば、そう認めてもらえるのだろうか。





さらに言えば、「犯罪者の家族」は何故非難されなければならないのか。

子供が犯罪を犯した場合の親の責任はまだ分る。
犯罪者の子供に、何の罪があるのか。





僕の職場には、外国籍のアルバイト君もいる。
中には中国人や韓国の方もいる。
彼ら彼女らが店頭に立つときに、極めて稀にだが、差別的な言葉をかけられることがある。

僕の父母は共に戦後の生まれだが、
僕の世代が何故、中国や韓国に対し、謝罪しなければならないのか。

その疑問が、積もり積もって、
逆に彼ら彼女らに降りかかってきているようで、不憫でならない。





インターネットやSNSが普及し、誰もが気軽に意見を発信できるようになったことは、偉大な発明だと思うが、

同時にまた、人間の嫌な部分も多く見えてきてしまっているように思う。

それが、残念である。